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2007年01月12日

朝市会場周辺のみどころ4

岩崎氏館跡

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岩崎氏は信光の男、信隆が岩崎氏を名乗ったのに始まり、寛正年間(1460-65)守護武田信昌(信玄の曾祖父)と守護代跡部氏と下克上の争いの中、武田側に与して滅んだと考えられている。この間武田氏の棟梁職をあらわす御旗、盾無鎧を相伝し、直信のとき武田信重に伝えたという。
http://shingen3.hp.infoseek.co.jp/shingen/takedakeizu.html

館は坂下川に望む断崖を利用して築かれており、立広の砦とも呼ばれている。方一町の規模を持ち、東と南、西に堀を穿(うが)ち、更に土塁を巡らし、西南の隅には望楼の跡と考えられる高台も残されており、坂下川に面した北西隅には虎口と思われる切れ込みもある。さらに館内部には、勝沼氏館跡の15世紀の第1期遺構で確認された、郭内を東西に区分していたと思われる施設の痕跡も見らる。
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昭和50年に勝沼バイパスの建設に伴い南の堀が発掘調査され、15世紀代の遺物とともに、幅7.6m深さ2mの南辺の内堀の一部が幅40m近くに拡大されている特異な防備施設を持つことが確認され、さらも内堀の外側に小規模な堀があることも確認されている。

岩崎氏は生山系図によれば甲斐源氏の棟梁職をあらわす御旗、楯無鎧を八代にわたり相伝し、岩崎直信のとき守護武田信重に伝えたといい、一時岩崎氏の盛信が甲斐守護として記されたことも符合する。

しかし岩崎氏が活躍した鎌倉時代から室町時代前半期は、甲斐の守護が誰であったかさえ確定できないほど記録が少なく、甲斐史の空白期とも言われ、源頼朝による平氏討伐に活躍した甲斐源氏の中心氏族の排除、さらに安芸守護兼任による棟梁武田氏の勢力分散により甲斐源氏自体の弱体化が行われたためで、岩崎氏はこの間の甲斐史に登場する数少ない氏族であり、岩崎氏の解明が甲斐を知る上で鍵となっている。
posted by かつぬま朝市ウェブマスター at 21:59| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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